今年潰れた遊園地「としまえん」の隣りにあるユナイテッド・シネマにて鑑賞。朝いち行けばまあまあ空いているため、わりと好みの映画館なんだが、いっこだけ気がかりなことがある。それは、エスカレーターの踏段に、ポップコーンのカスが詰まりまくっていている、ということだ。これ、しょっちゅう故障しちゃうんだろうなあ。それにしても、映画館内でバケツいっぱいに盛ったポップコーンを持ってうろうろしている人々がいる光景って、奇妙である。ポップコーンというものが選ばれた理由は分かるのだ。食べるときに音がせず、手も床も汚れにくいし、あとはその白さが暗い座席では有効なのであろう。でもそれなら、チータラ、とかでもいいような気がする。しかし、そういうことではなくて、僕が疑問を呈したいのは、そもそも、なぜ、外出先で映画を見ながら、何かを食べたいんだろうか、ということだ。同じようなのに、日曜の昼間に商店街を歩くとなぜだかメンチカツを歩き食いをしたり、公園に桜が咲きほこったら、わらわらと集まってきて何かを敷いてその下で飲み食いをしたりする、というのがある。何かを食べたいのであれば、きちんと食卓がある場所で摂取する方が容易なはずなんだけど、特定の状況に想起されて、ところかまわず食欲がくすぐられちゃうっていうのは、バイアスに大事な価値観が負けちゃってるという、残念な現象だと思うのだ。いつものようにどうでもいいことで脱線してしまったので、映画の話に戻します。
前半はかなり優れたカンフー映画だった。ジェット・リーのさわやかさと、ドニー・イェンの美しい所作、そしてジャッキー・チェンの親密なユーモア、それらのいいとこ取りをするアクションが、ついにこの時代に実現した。っていうのは、さすがに言いすぎかな。バスの中とか、ビルの足場とか、きちんとせまーいところで小気味良いアクションを繰り広げ、前述のカンフースターたちが活躍していた頃の、古き良き香港映画への敬愛が、びんびんに感じられた。また、手合わせの前に、ミシェル・ヨーがすうっと腰を落とす姿を大きなスクリーンで見ていたら、思わず涙が出てきた。アジア系格闘技に特有のあの静謐の時間には、「これぞエンタメなんだよな」という感慨がある。
しかしその一方で、どこか「ぜんぶ生身でやってるんだよなあ」という身体的な「肌ざわり」が薄れてしまっているのは、否めない。だって人間離れした動作をCGで作り出すことができる制作チームだからだ。出来上がった画を楽しむという活動において、そんなメタ視点を置くというのは穿った態度なのかもしれないが、カンフーという題材の場合、ちょっととくべつなことが起きていると思うのだ。というのは、ジャッキーはどの映画でも、物語の中の登場人物ではなく、ジャッキーその人なのだ。観客は、ストーリーに没入することなく、「カンフー映画」というものを客観的に感じている。エンドロールにNGシーンを堂々と出しちゃうような、楽屋オチが通じるのもそのおかげだ。ある種、スポーツ観戦みたいなものかもしれない。だからこそ感じられる「この技すごいなあ〜」という興奮が、MCUシリーズの中に取り込まれてしまうことで、違うものに变化してしまったのではないだろうか。
後半は一気に『エアベンダー』とか『グリーン・デスティニー』みたいなアジア系ファンタジー世界にすっぽりと入り込み、最終的には『ゴジラvsコング』のごとく巨大生物が大立ち回りする事態に。これには賛否両論あるかもしれないな、と思った。しかし、『エンドゲーム』までやっちゃったMCUのスケールサイズはもはやインフレ飽和状態であり、人間同士の打撃だけで終わったらもの足りないというのも事実、しょうがない。